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医学書院、≪神経心理学コレクション≫から
面白いタイトルの本を見つけた。

『心はどこまで脳なのだろうか』である。


確かに、〈心〉と〈脳〉は判別しにくい。
しかし、また〈心〉と〈脳〉は同義にも
扱われている。


子供時代に、〈記憶〉をしたことは?
かなり覚えている。しかし、会話とか
知り合った人の名前は、忘れたりしてる。

ある人を知り、顔と名前を記憶している。

が、それがどんな人か忘れたりすることや
顔だけを覚えているのに、名前は忘れてる
場合もある。

人間には、精神病ではなくて〈ど忘れ〉
というものもある。しかし、若い人にも
〈認知症〉や、〈離人化〉による記憶の
減退もある。


ここで、記憶について記事に書いていると
人は、記憶だけを気にする。しかし、実は

〈想う〉ということや、〈考える〉という
ことによる〈検証〉や〈研究〉や〈査定〉
というものがある。


それは、〈心〉ではなくなるので
〈感覚〉や〈感受性〉からは離れていく!


〈感覚〉や、〈感情〉というのは現実に
〈今〉や〈過去〉のことに意識的に想念や
祈念が起きやすいが。他人の日常に対して

〈関心〉がある人には、精神障害者による
こだわりや、執拗な依存もある。然るに

人間は、〈想い〉には左右された日常が
あるにも拘わらず、実は〈脳〉の中では

繋がらない、関わりが無い人間関係では
知識や、情報というのは介在しにくい!?


テーマとして、面白いので使った。




心はどこまで脳なのだろうか


著:兼本 浩祐
シリーズ編集:
山鳥 重/河村 満/池田 学

判型 A5頁 212発行 2011年05月
定価 3,672円 (本体3,400円+税8%)
ISBN:978-4-260-01330-7


序文 

「私という現象」は本当に存在するのか、「心」はどこまで「脳」なのか


近年の脳科学の進歩や操作的診断基準の
普及により、精神医学の拠って立つ地平が
大きなパラダイムシフトを起こしている。
患者の病的体験を直接的に「了解」しよう
とするアプローチは廃れ、あたかも精神医学
が脳科学の一分野であるかのように語られて
いる。
しかし、本当に「心」はすべて「脳」で説明
しきれるのだろうか。精神医学、脳科学の
根本命題をめぐる、著者一流の考察。

*「神経心理学コレクション」は
株式会社医学書院の登録商標です。



まえがき 

 少なくとも世紀の変わり目くらいまでは,
多くの精神科医にとって,ヤスパースの
精神病理学総論が括りだしたいくつかの
鍵概念,了解可能性,発達か過程か,内因
・外因・ 心因の区別,道具性の障害などは,
診療や症例についての議論を行ううえでの
基本的な原理であり続けていました。
ところが今世紀に入って,驚くべき地殻
変動が精神医学において地滑り的とも
言える速度で起こり,多くのヤスパースの
鍵概念は,批判して否定されるというより
は立ち止まって吟味されることもなく忘れ
られつつあります。
これには操作的診断体系のグローバリゼー
ションを含め,複数の原因が関与している
と思われますが,脳科学による精神という
領域への侵入もその大きな原動力の1つと
なっていることは間違いないことのように
思えます。精神医学が扱う主要な領域は,
「‘私’という現象」にかかわるわけですが,
そもそも「‘私’という現象」の存在それ
自体に対して,現在,脳科学は深刻な
懐疑を差しはさんでいます。
 








✒書評


知識や理論を臨床と結び付ける方法を伝える
格好の書

書評者:鈴木 國文
(名大教授・精神神経科学)

 とにかく面白い本である。最初の頁から
最後までワクワク感を失うことなく一気に
読むことのできるまれな専門書の一つと
言っていい。 (中略)


 たとえば,一足の靴について,それを靴と
言い切ることができず,「靴のようなもの」
としか認識できなくなった「連合型視覚失認」
の症例を診たときの驚きから,著者は,
「普通の人が一足の靴を見てそれを靴と呼び,
何の過不足も感じないで済ますことができる
のはなぜか」という問いを立てる。こうした
問いを立てることは,哲学者ならともかく,
普通の臨床家には,決して容易なことでは
ない。たいていの場合,「これは連合型視覚
失認である」という記述で終わってしまうの
である。著者は,その症例の抱える困難から,
脳の機能について,さらには脳が機能する際
の言語の役割について,丁寧な推論を重ねる。
そのスリリングな歩みは,精神について考える
際に踏まえなければならない基本的な哲学的
前提と,脳科学の最新知見の両方を,極めて
わかりやすい形でわれわれに伝えてくれている。
 



目次


第1章 心とは脳だろうか 

第2章 あるピアニストの事例-
心が体に置き換えられる 

第3章 ある老画家の事例-
脳が心を支配する 

第4章 外因・内因・心因-
神経回路網としての心と内因性精神疾患 

第5章 デカルト的二元論 

第6章 連合型視覚失認の事例-
名づけられることの前と後 

第7章 同じものが同じであることの奇跡 

第8章 イデア論再考 

第9章 ヤンツ教授の最終講義-
てんかんとは「学習過程」“Lernprozess”である 

第10章 心は計算式に置き換えられるか 

第11章 犬がもし操作的に診断されたとしたら 

第12章 プライミングとジョン・ヒューリングス・ジャクソン 

第13章 心は開かれた形で生まれ、
後に閉じることを学ばれる-
並列処理の直列化 

第14章 フロイトの無意識とは何か 

第15章 漢方治療と官能的身体 

第16章 精神分析における心的装置-
それはたぶん脳の外に跨っている 


▫エピローグ スピノザの幸福とデカルトの不幸 


✒参考文献 
✒索引



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本を読む園児に、本の内容を確認すると?
ある園児は、こういうご本だよ、と説明を
してくれる。

ある園児は、『先生、読んで!』という。
ある園児は、『知らないの?』と聞く。

それは、『自意識からの確認』であるし
『自らの記憶の検証』である。幼児には

『知ることを語りたい』欲求がある。


しかし、『知らないことを知る人』に
聞いてみる、ということをやる幼児もいる。

角松敏生は、幼少時代、知らないことが
あると私に聞いた。聞いてきたが、自分が
分かったら、それは最初に私に聞いてみて

ハッキリしたら、自分の中にある事実が、
検証出来ることになるのだという言い方
をしてプライドを誇示した。

あまのじゃく(笑)。


人間には、想うことを〈何か〉に転化し
こじつけることがある。知らなかったが
『知ってるけど、聞いてみる』という風に。

だから、脳というシステムには計算をする
機能があり、〈自分の都合〉が介在する。

しかし、『想うことを思うままに話す』と
いうことを、人間は得意にする。迷走やら
妄想やら、空想や希望的観測である。


希望や、祈念には〈当てにならない現実〉
というものが生きる。スポーツの試合とか
大学受験や、恋愛や就職活動や子供の誕生。


〈心〉は、果てしなく遠くにある現実や
未来に生き場を求めるが。〈脳〉とは?

あくまでも、〈不都合〉なる自分に最も
近い場所に存在している。リアリズム。


哲学には、〈幻想〉や〈妄想〉もある。

しかし、たぶん〈死〉を知らない人間には
〈生〉へのこだわりや、憐憫により感情が
〈たられば〉を捨てられずに、模索したり

迷路して、〈己〉を全うするという自分に
酔わされていくに違いない。酔わないと
戦えないし、生き抜けないのかも?


補足すると、昨今増えている精神疾患。

精神疾患では、人間とは自分自身には
なかなか酔えない、といった現象がある。


精神疾患には、他人や物事への執着とか
依存が起きやすい。つまり、向上心とか?

探究心は、別の次元に離脱してしまうから
である。要するに、自分嫌いには酔う気が
薄い、低いという傾向があるのである(笑)

例えば、恋愛をしない人が、他人の家庭や
他人の恋愛には、夢中になり傍観者になる
といったこと。精神障害者には他人ごとが
楽しいらしい!?



書評の鈴木國文氏の文章の最後には、
こんなことが書かれてあった。


この書で使われている日本語はきれいである。
今,物事を頭に整理して入れようとするとき,
どのような言葉を使えばいいのか,ここでの
論述はその見事な範例と言えるだろう。 

 単に精神科医だけでなく,心を扱う多くの
人に読んでほしい一書である。